連載:私の研究履歴書 第4回 〜学生時代4 修士論文と就職〜
化合物(2)の環状架橋部分の構造を把握するために埼玉県の理化学研究所に派遣され、坪山研究室で大型計算機による分子力場計算(MM2)に挑戦しました。今日なら(2)の分子力場計算はノートPCで手軽に処理できますが、当時は理研が誇る大型計算機が必要でした。また、私が初めて見た理研の日本語レーザープリンター(NLP)は冷蔵庫よりも大きい代物でした。坪山薫先生のご指導のもとで化合物(2)の初期座標をMM2計算に入力すると、たちまち合理的な3次元分子構造がNLPで印刷されます。その構造を並べると架橋鎖が縄跳びをしている、まさにイメージ通りの(2)の分子構造が浮かび上がりました。理研には2週間ほど滞在しましたが、富士山を見ながら頂く朝食は関西人の私には新鮮でした。
理研滞在中に山本喜代子先生とコバルトポルフィリン錯体の構造について議論する機会がありました。山本先生のご研究はCoTPPCl錯体の反応と構造の全てを隅々まで完全に理解しようとする「学問」の迫力に満ちていました。「田嶋さん、分子構造を考えるときは自分自身が分子の上を歩くような感覚で分子を眺めるのよ」とのご教示に私はすっかり山本先生のファンになりました。理化学研究所ではライフワークとして「学問」に取り組む坪山先生御夫妻、山本先生の研究姿勢から多くを学ぶことができました。
理化学研究所で「学問」の刺激を受けて研究室に戻り、そろそろ就職かなとぼんやりしていると石津先生から教授室に呼ばれました。「君は修了後に関西に戻る事情があるのか?」と問われました。当時の就職は教授推薦で決まるのが殆どでしたから、「特にありません、何処でも行きますよ」と即答しました。「それなら、来春から助手として、もうちょっとゆっくりして行け」。先生の「ゆっくりして行け」は修士課程進学に続く2度目なので、「少し考えさせてください」とその場を逃れました。私は進路について逡巡するタイプのようで、数日後に「挑戦してみます。力不足ならば、ご指摘ください。直ちに転職します」と、返答しました。その日から、修士論文の内容を国際学会で口頭発表する準備と2報目の論文作成が慌ただしく始まりました。高等学校の恩師島本先生の予言、「君は研究室に残る人材だから頑張りなさい」が現実味を帯びてきました。
分子科学研究所での国際学会は1月末、修士論文提出と公聴会は2月初旬と下旬、忙しい日々が続きました。英語での発表と質疑応答を汗だくで済ませて松山に戻り、修士論文の仕上げに取りかかりました。当時の修士論文は大学指定の原稿用紙に手書きで作成しますが、ここで予期せぬ問題が起きました。修論の完成版を先生に提出したところ、「これは下書きかね?」の一言で返却されました。しばらくすると、先生が事務用万年筆を買ってきて下さって「これで丁寧に清書しなさい」と、私の修論は小学生の作文のごとき取り扱いを受けました。約180頁の修論を一週間ほどで書き直して提出しましたが、先生は一行たりともお読みでは無いと確信しています。公聴会も難なく終わってのんびりしていると、先生から助手採用の人事が教授会で承認されたとのお知らせがあり、3月中旬に私の就職が決まりました。同期生では最後でした。